「灯籠が語る」 まちの記憶 Vo.3
奉納名に残る地域のつながり
新しい年が始まりました。年始に初詣を済ませた方も多いのでは? 今回は神社や寺などにある奉納物を見てみます。

写真下/鳥居を通り、拝殿に向かって参道の左側にある灯籠と記念碑。中央にある「灯籠について」の立て札には、以前は西武門までの旧参道両側に並んでいたが、現在は4分の1になったことが記されている。
年始に初詣を済ませた方は、お参りした場所の境内を思い出してみて下さい。本殿や拝殿といった建物の他に、鳥居や山門(さんもん)、灯籠(とうろう)などもあったと思います。それらをよく見ると、必ずといって良いほどに「奉納」と記され、併せて奉納者の名前や年月が書かれています。
これらの奉納物は、その時代その場所での有力な人々や組織が奉納している例が多くあります。奉納者の場所からは神社や寺のある場所と他の地域とのつながりも見えてきます。


写真下/復帰前にあった「琉球生命保険会社」の名前が刻まれた灯籠。復帰以前のころの名残が感じられる。
奉納物の話で最初に思い出すのが、那覇にある波上宮の参道にある石灯籠です。ここには、沖縄が本土復帰する以前の会社や団体の名が刻まれた灯籠が置かれています。例えば、琉球生命保険株式会社(琉生)と刻まれた灯籠。復帰後に本土の会社と合併して消えた会社です。現在も、那覇の坂下にある琉生病院の名称にその名残をとどめています。他にも、「一銀通り」に名を留める第一相互銀行や那覇市商工信用協同組合(沖縄信金を経て現在のコザ信金)と刻まれた灯籠もあります。
最も注目したいのが、那覇料亭組合と刻まれたものです。灯籠の下の方を囲むように、組合に所属していたであろう料亭の名が刻まれています。こちらも、現在は店を畳んでしまった料亭の名が残っています。当時の街の雰囲気が伝わるようです。

写真下/土台部分には、組合員の料亭名が記され、かつての活気を伝える。
さて、灯籠が並ぶ一画に、戦後灯籠を整備した際の記念碑が置かれています。この記念碑の前に「灯籠について」と題した立て札があります。この立て札によると、現在の灯籠は4分の1だけが残っているそうです。もし全部残っていれば・・・と感じます。もちろん、神社には記録があるのかもしれませんが、人の目に見える形で歴史が伝わったのではないかと思うのです。
参拝の人々や出店で賑わう初詣の時はゆっくりと見られませんが、そろそろ普段の姿に戻った神社や寺をゆっくり散策して、境内にあるものに少し気を留めてみてはいかがでしょう。意外な発見があるかもしれません。
<クイズ>
まちには、よく見ると歴史を刻むものがあちこちに。写真の車止めの石には昭和14年2月建立と刻まれています。
さて、これはどこでしょう? 答えはVol.4へ
<まちあるきライター>
一柳亮太(ひとつやなぎ・りょうた)
1978年、神奈川県出身。大学で地理学を専攻し、離島に暮らす人々の生活行動を研究。まちや地域をテーマにしたワークショップやプロジェクトを運営する傍ら、まちあるきライターとしても活動。
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毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞「第1310号2011年1月21日紙面から再掲載」