沖縄の不動産・賃貸・売買ならコノイエ+プラス

お役立ちコラム

道・すーじーが語る まちの記憶(那覇市国場から仲井真)

「道・すーじーが語る」 まちの記憶 Vo.5

坂道やカーブに浮き出る”線路”

 街中の細いすーじ(路地)や道には、いろいろな暮らしの跡が隠れています。今回は、那覇市と浦添市にある3つの路地に着目してみます。

 1カ所目は、那覇市国場から仲井真にかけての路地です(地図a)。左上のJAおきなわ国場支店から右下に向かって緩くカーブをした後、右下へ向かう細い道が見えます。那覇東バイパスも突っ切り、一直線に進んでいます。
 2カ所目は、那覇市首里寒川町にある路地(地図b)。首里観音堂の南側に釣鐘を横に倒したような一角があります。その釣鐘の下辺に当たる路地をたどると、北に向かって緩くカーブしながら、上辺の道に合流しています。
 3カ所目は、浦添市内間付近の道です(地図c)。内間地区の南北に伸びるパイプライン通りから内間小学校を回りこむように、4丁目から5丁目に向かい、やはりカーブをしながら安謝川の方向に向かう道があります。

 これらは、実は「鉄道の跡」です。戦前の沖縄には、那覇を中心に与那原、嘉手納、糸満を結ぶ軽便鉄道(沖縄県鉄道)が走っていました。また、大正から昭和初期にかけては、那覇と首里を結ぶ路面電車も走っていました。最近こそ、軽便鉄道の存在は知られてきましたが、その跡はほとんど残っていないと言われています。
 鉄道の線路と人や車が通る道とは、異なる点が主に2つあります。1つ目は、鉄道は来直角に曲がれないので、緩いカーブで曲がったり分岐することです。2つ目は、急な坂は登れない点。迂回したり複数のカーブで坂を越えます。この特徴が地図にも現れます。
 那覇市国場は、与那原線から糸満線が分岐する駅でした。紹介した路地は、糸満線が分岐して南に進む地点です。首里寒川町の路地は、路面電車が首里へ上がる際に、急坂を少しでも低い勾配で登ろうとした線路の跡。そして内間のカーブは、嘉手納線の跡がそのまま道路になったパイプライン通りから分かれ、安謝方面へ伸ばそうとして途中まで建設された引込み線の跡なのです。

 この他にもいくつかの鉄道の跡が、那覇の近郊で残っています。こうして見ると、鉄道の跡は残っていないのではなく、実は目の前にあって気づかないだけなのかもしれません。

写真1/右へカーブし、南下する糸満線の跡。直進する与那原線の跡は残っていない 写真2/橋を渡り、直進する糸満線跡。河川改修で橋の跡などは残っていない。那覇東バイパスを越えた先で途切れるが、その先も断続的に道路となって跡が残っている
写真1/右へカーブし、南下する糸満線の跡。直進する与那原線の跡は残っていない
写真2/橋を渡り、直進する糸満線跡。河川改修で橋の跡などは残っていない。那覇東バイパスを越えた先で途切れるが、その先も断続的に道路となって跡が残っている

まちの記憶
写真3/一見すると、住宅地の細い路地にしか見えない。だが、紛れもなく路面電車の線路跡 写真4/左にカーブをする線路跡。奥に向かって緩い上り坂となっていて、少しずつ勾配を上がっていく様子が分かる
写真3/一見すると、住宅地の細い路地にしか見えない。だが、紛れもなく路面電車の線路跡
写真4/左にカーブをする線路跡。奥に向かって緩い上り坂となっていて、少しずつ勾配を上がっていく様子が分かる

那覇市首里寒川町
写真5/浦添市の主要な道路となっているパイプライン通りも、鉄道の線路跡だった。正面の白いビル左手から分かれる一方通行の道が、引込み線跡 写真6/電柱を見るとカーブの様子が分かりやすい。戦時中、安謝にあった工場へ延ばす目的で建設されたが、工事は途中で終わった
写真5/浦添市の主要な道路となっているパイプライン通りも、鉄道の線路跡だった。正面の白いビル左手から分かれる一方通行の道が、引込み線跡
写真6/電柱を見るとカーブの様子が分かりやすい。戦時中、安謝にあった工場へ延ばす目的で建設されたが、工事は途中で終わった

浦添市内間周辺


<まちあるきライター>
一柳亮太(ひとつやなぎ・りょうた)

 1978年、神奈川県出身。大学で地理学を専攻し、離島に暮らす人々の生活行動を研究。まちや地域をテーマにしたワークショップやプロジェクトを運営する傍ら、まちあるきライターとしても活動。

▼関連する過去の記事


毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞「第1318号2011年3月18日紙面から再掲載」

月別アーカイブ

ライター