「道が語る」 まちの記憶 Vo.8
日常に隠れた戦争の痕跡
週刊ほ〜むぷらざ1318号で取り上げた鉄道跡の話で、線路は迂回したり緩いカーブで坂を越えるなど、人や車が通る道路とは異なる特徴が現れると紹介しました。地図を眺めていてその時のような道を発見。中城村和宇慶付近にある道です。この道は、海へ向かってカーブし曲がり終わると直線になりますが、海岸手前で突然途切れてしまいます。どんな記憶のある道なのか、調べてみました。

1914(大正3)年から45年まで、中城村には与那原と泡瀬を結ぶ馬車軌道「沖縄軌道」が現在の国道329号に沿って走っていました。馬車軌道とは馬が引くトロッコのような乗り物で、当時、全国的に普及していました。県内にはこの沖縄軌道のほかに、那覇と糸満を結ぶ糸満馬車軌道も存在しました。文字通り馬力で走るのですが、鉄道の仲間とされています。
この沖縄軌道は、もともとは西原にある製糖工場へサトウキビを運ぶために建設されたもので、沿線に広がるサトウキビ畑へ本線から分かれる引込み線が無数に伸びていました。和宇慶の道も、馬車軌道から分かれた線路跡のように見えてきます。突然途切れるのも、例えば集積場のような場所があったからではないかと考え、半ば線路であると思い込んでいました。
しかし、村史や古い地図を調べても、鉄道があったという記録や痕跡は見つかりません。もっとも信用できる、1920年陸地測量部発行の地形図にも載っていないのです。もちろんこの地形図には、沖縄軌道や与那原から伸びる軽便鉄道は描かれています。
答えは、意外な方向から分かりました。調べる中で、沖縄戦のころ和宇慶の南側に飛行場が存在したことを知り、当時の空中写真が掲載されている「県史ビジュアル版5-空から見た沖縄戦」という本を読んでみました。その本には飛行場の誘導路らしき道が、現在の道とほぼ同じカーブと直線で、空中写真に載っていました。1944年着工の日本陸軍沖縄東飛行場の写真に道の姿はなく、翌年拡張した米軍与那原飛行場の写真に載っていることから、米軍飛行場の一部であったと推測できます。
地域に溶け込み、当たり前に利用されている道が、実は米軍による飛行場の一部でした。戦争の痕跡だったのです。博物館や戦跡の場所だけでなく、日常の中に隠れている戦争の痕も、とても大切な過去を伝えてくれる存在です。6月23日の慰霊の日を前に、ふと考えさせられた和宇慶の道でした。






<まちあるきライター>
一柳亮太(ひとつやなぎ・りょうた)
1978年、神奈川県出身。大学で地理学を専攻し、離島に暮らす人々の生活行動を研究。まちや地域をテーマにしたワークショップやプロジェクトを運営する傍ら、まちあるきライターとしても活動。
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毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞「第1331号2011年6月17日紙面から再掲載」