沖縄の不動産・賃貸・売買ならコノイエ+プラス

お役立ちコラム

新城和博の「ごく私的な歳時記」<9>

この入り江のむこうからサバニがやってくる
この入り江のむこうからサバニがやってくる

サバニを漕いで

 お盆が過ぎると秋の気配がするのは沖縄も一緒だ。ふとした空き地の夕暮れ、アーケージュー(トンボ)が群れをなしているのを見たりすると、秋近しと思うのはベタ過ぎる感情かもしれない。まだまだ長い夏が続くだろうから、季節感というのは一種の刷り込みなのだろう。

 今年のお盆は久しぶりに、夏休みで帰省していた娘と一緒に親戚まわりをした。本人の希望だから、やはり離れて気付く故郷・ルーツへの思い、というのがあるのかもしれない。
 僕が大学生の時に亡くなった父親は、つまり娘にとっては会えなかった祖父であるが、小さな島の出身だ(沖縄県内で知る人ぞ知るという感じ)。親戚の多くも島を離れているから、お盆は、那覇を中心にして、沖縄島のあちこちに点在している親戚の家をまわることになる。
 いつもはだいたい僕一人でまわり、徐々に高齢化していくおじさん、おばさんの近況をふむふむと聴くのだが、今年は娘が一緒なので、改めて生まれ島で過ごした日々のことを聴いてみた。島には高校がないから、ほとんどは高校進学を機に島を離れ、そしてそのまま今に至るという場合が多い。思い出のほとんどは中学校までということになる。
 「野球するのにも島の中でだけでは人が足りないから、サバニ漕(こ)いでT島とかZ島に行って、試合したよ、僕たちは」
 サバニ漕いで野球? 初めて聞く話だ。戦争が終わって少しずつ島が落ち着いた頃、中学生だったおじさんたちの思い出である。
 「先生たちに言ったら怒られるから」、子どもたちだけでこっそりサバニを漕いで行ったらしい。中学生だけでは9人そろわなかったから、小学5、6年生も連れていった。向かいの島までは、僕からすると海峡と呼んでもいいくらいの距離があるのだが、特に大変だったという記憶はないらしい。海を熟知していたのだろうな。
 「大きいT島とかZ島からは来なかった。僕たち小さい島からしか行かなかった」そうだ。T島は、サバニで浜に着いても、そこからさらにひと山越えてようやく相手のムラが見えてくる。そこはもう峠と言っていいくらいの地形である。
 「ムラが見えてくると、僕たちはそれまでずっと裸足(はだし)だったんだけど、そこで初めてズック(靴)を出して履いてから、相手のところに行きよったよ」。当時ズックは貴重なものだったのだ。スーテーして、つまり大切にして使っていた。白いズック、とおじさんは言った。グローブも手作りだったとか。
 試合が終わると、また峠を越えて帰る。もちろんズックを脱いで裸足だ。そして再びサバニを漕ぎ海峡を越え島に戻った、という。特に大変だった、という記憶ではないらしい。おかしそうに、そういうことがあったなぁという感じだ。
 僕と娘は、その話を聞きながら、サバニが白い波をあげて紺碧(こんぺき)の海を進む姿を思い浮かべていた。
 「うちの島の学校はその頃まではA島の分校だから、先生たちの職員会議の時もサバニで渡るわけさ。漕ぐのは生徒だよ、僕たちさ」。先生が会議している間、サバニで待っていて、時には夜になることもあった。それでもその日のうちに島に戻ったという。
 戦世(イクサユー)を生き延びた少年たちの思い出である。

写真左/今年はウンケーで出てきた団子がカラフルでした。 写真右/今年の夏、近所で見つけたナーベーラー。花もかわいい
写真左/今年はウンケーで出てきた団子がカラフルでした。
写真右/今年の夏、近所で見つけたナーベーラー。花もかわいい

▼新城和博さんのコノイエコラム
ごく私的な歳時記 関連記事

新城和博の「ごく私的な歳時記」

この記事のライター

新城 和博

ライター、編集者

新城 和博

1963年生まれ、那覇市出身。沖縄の出版社「ボーダーインク」で編集者として数多くの出版物に携わるほか、作詞なども手掛ける。自称「シマーコラムニスト」として、沖縄にまつわるあれこれを書きつづり、著書に「うちあたいの日々」「<太陽雨>の降る街で」「ンバンパッ!おきなわ白書」「道ゆらり」「うっちん党宣言」「僕の沖縄<復帰後>史」などがある。

月別アーカイブ

ライター