「道路が語る」 まちの記憶 Vo.13
路線番号がつなぐ沖縄の歴史
電話番号や看板に記された番号などまちの中に残るさまざまな数字に、地域の昔が見えてくることがあります。今回は、道路の路線に残る数字から歴史をさかのぼります。

道路に番号をつける場合、一般的には主要な区間、通行量の多い道から若い番号をふっていく例がよく見られます。全国的に見ても、国道1号は東京と大阪の二大都市を結び、その延長線に国道2号が大阪と福岡を結んでいます。
沖縄県道の番号は、いわば対照的ともいえる状況です。1号線は存在せず、2号線は那覇から離れた本島最北端の国頭村与那と安田の間を東西に結ぶ道にふられています。3号線も本島最南端近く、糸満市小波蔵から南向けに喜屋武まで約1.4キロの道です。では、なぜ1が欠番となり、2と3が南北端に位置しているのでしょうか。3号線は距離も短く、主要な道とも思えません。
その答えは、昭和47(1972)年の復帰以前のアメリカによる統治の中にあります。米軍は戦後間もなく沖縄の主要な道に、アメリカの基準をモデルとした番号をつけたのです。南北方向の道は主要都市の位置する東から順に奇数を、東西方向の道は偶数を北から順に番号をつけました。那覇を基準に、まず北へ基地が集中する中部方面に伸びる道を1号線とし、ついで南へ向かう3号線に、以後東へ順に5,7…と奇数が付けられました。東西を結ぶ道にも、北から順に2,4…と偶数が付けられました。
こうしてみると、当時の3号線は那覇から糸満方面を結ぶ主要な道であったのが分かります。53年からは、現在の豊見城市名嘉地を境に、那覇側は米軍が設置管理する軍道、以南は琉球政府が設置管理する政府道に分かれましたが、引き続き両者を合わせて3号線でした。
復帰後、道路の制度も大きく変わります。軍道は国道に、政府道は主要区間を国道とし、それ以外を県道として政府道を引き継ぎました。1号線は全区間が国道58号となり、1を名乗る道は消滅。2号線は県道2号となりました。そして3号線は、南部を一周する道として大部分が国道331号に組み入れられ、現在のわずかな区間のみが県道3号として残されました。
のどかな風景の中を走る短い距離の県道と、その道に与えられた番号に、アメリカと日本の間で揺れ動いた沖縄の姿が垣間見られるのです。







<まちあるきライター>
一柳亮太(ひとつやなぎ・りょうた)
1978年、神奈川県出身。大学で地理学を専攻し、離島に暮らす人々の生活行動を研究。まちや地域をテーマにしたワークショップやプロジェクトを運営する傍ら、まちあるきライターとしても活動。
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毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞「第1349号2011年10月21日紙面から再掲載」