「通りが語る」 まちの記憶 Vo.14
松山に残る問屋街の美観
昭和31(1956)年に開かれたこの通りは、かつては名にたがわず卸問屋が軒を連ねていました。昭和53年に通り会が刊行した「二十年の歩み」を読むと、那覇の問屋が集まりまさにゼロの状態から街を作り上げた様子が描かれています。

通りに立つと目につくのが、道幅の広さです。歩道が無く交通量も少ないので、幅広く見えるのかもしれません。よく見ると街が開かれた当時からの建物は、車道に面する1階が等しく1メートルほどセットバックしていて、道幅をより広くしています。2階に取り付けられた庇の部分も長さや高さがそろえられ、街並みがすっきりと見えます。
もう一つ、街並みをすっきりと見せるのが、電線の少なさです。よく見ると電線は、建て替えられた新しい建物には引き込まれていますが、古い建物にはほとんど見受けられません。先の「二十年の歩み」によると、問屋として商品の搬出入に便利なように、かつ美観を保つために、前述の建物の形のほかに電線の地中化を行ったとの記載があります。今からおよそ55年前に、建物の形をそろえ、電線も無い景観の整った美しい街の建設が実現していたのです。
周辺に目を転じると、現在も残る若松市営住宅と公設市場のほか、かつては映画館や結婚式場もありました。当時、北部から那覇に来て卸問屋に就職した方が、「街ができ、僕たちが働き始めて、娯楽の場所ができて、結婚式場が建って、家族が暮らす住宅と市場ができたんだよ」と話してくれました。若松通りで暮らす人々のいわば人生に合わせて、街が作られたのでした。
平成2(1990)年、浦添市西洲の卸商業団地へ、若松通りで営む企業の多くが移転すると街も大きく姿を変えました。隣町の前島3丁目とを結んでいた若松橋も今年1月に架け替えに備えて通行止めとなり、今は取り壊しを待っています。
若松通りは歴史というには新しく、史跡とは言えません。建て替えも進み、街が開かれた当初の美しい街並みが残る訳でもありません。しかしながら、若松通りが出来た経緯や関わった人々の思いが見えるその街並みは、戦後の那覇を語る上で重要な存在であると思うのです。 那覇市松山の繁華街から前島3丁目に向け、国道58号と平行する「若松通り」があります。この若松通り、時には「若松卸問屋街通り」とも呼ばれ、かつての通りのにぎわいを今に伝えています。







<まちあるきライター>
一柳亮太(ひとつやなぎ・りょうた)
1978年、神奈川県出身。大学で地理学を専攻し、離島に暮らす人々の生活行動を研究。まちや地域をテーマにしたワークショップやプロジェクトを運営する傍ら、まちあるきライターとしても活動。
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毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞「第1357号2011年12月16日紙面から再掲載」