「区画が語る」 まちの記憶 Vo.15
埋め立てに残る過去のかたち
これまで鉄道や飛行場の跡など、道路や区画の形をよく見ると地域の昔が分かる、という例を紹介してきました。今回は、那覇市鏡原町の那覇大橋南詰めあたりにある「ガーナー森」とその周囲を見に行きます。

お正月、奥武山にある神社へ初詣に行かれた方もいらっしゃると思います。奥武山の公園内は神社のある木が茂る小高い部分と、運動場などがある平坦な部分に分かれています。この小高い部分は、もともと国場川河口部の漫湖に浮かぶ島々でした。
島々の中で、海から最も奥に位置するのがガーナー森です。一説よると形が「たんこぶ」(方言でガーナー)のように見えるので、この名が付いたとも言われます。鶴の頭に見えるので「鶴頭山」とも呼ばれました。古い写真を見ると確かに鶴のようです。特に、北西の方角に伸びる砂州が首筋に見えて、いっそうガーナー森を鶴の頭に見せています。
今の奥武山公園付近は、このような島々の間を埋め立てて、現在のような地形となりました。ガーナー森も1957(昭和32)年に開始された埋め立てにより、現在残る形となりました。鶴の頭に当たる部分は、今でも鬱蒼(うっそう)と木が生い茂っているので外から見てもすぐに分かります。気になるのは、首筋にあたる砂州の部分です。もともと起伏の無い部分なので、周囲の埋め立てした土地と見分けがつかなくなっているかもしれません。
付近の地図を見てみると、あることに気づきました。ガーナー森周辺は、概ね四角く区画、造成された住宅地となっています。四角い区画に、斜めに入り込むようにガーナー森が残されていますが、その南側には同じように斜めの細長い区画が存在しているのです。まるで、道路用地として確保されているかのような区画です。
そこで、さらに空中写真を調べて驚きの声を上げてしまいました。この斜めの区画が、以前ガーナー森にあった砂州の形とほぼ一致しているのです。埋め立てで失われたと思っていた砂州が、土地の区画に残っていたのです。現地へ行き実際の様子を見ると、道路に対して斜めに建つ建物や砂州の形に残る駐車場が存在していました。
土地の境界線は、区画整理や農地改良が行われない限り、過去の姿を残します。変化の激しい都会の、さらに埋め立て地であっても、土地の区画に地域の歴史を残しているのです。






航空写真で見ると

<まちあるきライター>
一柳亮太(ひとつやなぎ・りょうた)
1978年、神奈川県出身。大学で地理学を専攻し、離島に暮らす人々の生活行動を研究。まちや地域をテーマにしたワークショップやプロジェクトを運営する傍ら、まちあるきライターとしても活動。
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毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞「第1362号2012年1月20日紙面から再掲載」