「国際通りが語る」 まちの記憶 Vo.18
旧制中学の校名 跡なき今も残る
バス停名は近隣の地名や施設名から命名されますが、よく見ると、現在は存在しない施設や今では用いられない地名が残される、地域の過去を語ってくれる存在です。
今回取り上げるのは、那覇市の開南。沖縄本島南部方面からの、那覇への玄関口です。中心市街地の衰退が言われ、集まるバスの本数も減りましたが、現在でも多くの人が行き交う場所です。
開南バス停の周辺ですが、交差点の名前、周囲のお店など開南を名乗るものが数多く存在し、人々からも当たり前のように開南と呼ばれています。しかし周辺の住所は、バス停を挟んで北側が松尾、南側は樋川となっていて、開南という住所は見当たりません。
では、なぜこの場所が開南と呼ばれるのでしょうか。その答えは、開南バス停の南側に広がる住宅地に隠されています。バス停の付近から緩い上り坂を少し上がると、道路が真っすぐに区画された住宅地が広がっています。およそ50メートル四方程度の狭い面積ですが、地図を見ると、この一画は整然と住宅が並んでいる様子が読み取れます。
実はこの場所に戦前ある学校がありました。1936(昭和11)年に開校した開南中学校(旧制)です。その校名が、現在もこうしてバス停の名に残り、また周辺でも用いられているのです。確かにこのような背景を知れば「南に開く」という、いかにも学校の名前にふさわしいような気がしなくもありません。
開南中学校は、その後44(昭和19)年の10・10空襲で校舎が消失し、閉校状態となりました。戦後の47(昭和22)年には跡地に開南初等学校が開校し、この学校は翌48(昭和23)年に敷地を市役所に譲る形で、現在の泉崎へ移動しますが、校名はそのまま引き継がれて開南小学校となっています。
さて、現在はこの地に学校があった痕跡は、ほぼ残っていません。敷地の形状すら変わっています。10・10空襲の後に米軍が撮影した空中写真を見ると、敷地は広く平らにされた様子がうかがえます。恐らく、学校や市役所として利用するために再び造成され、その後分譲されて住宅地となったようです。
開南中学校は、戦争と戦後の混乱で土地に残る痕跡すら失われてしまいました。しかし、人々に親しんで呼ばれる地名として今でも名前を残しています。今回から、各地に散らばる隠れた物語のあるバス停を訪ね、バス停名に残るまちの記憶を見ていこうと思います。






<まちあるきライター>
一柳亮太(ひとつやなぎ・りょうた)
1978年、神奈川県出身。大学で地理学を専攻し、離島に暮らす人々の生活行動を研究。まちや地域をテーマにしたワークショップやプロジェクトを運営する傍ら、まちあるきライターとしても活動。
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