「泡瀬バス停が語る」 まちの記憶 Vo.20
3つの「泡瀬」に戦後の混乱の跡
今回は、沖縄市東部に位置する、「泡瀬」のバス停を取り上げます。区画整理された幅の広い道が真っすぐに延びている印象が強い泡瀬地区ですが、この泡瀬バス停がある辺りは、昔ながらの細く緩いカーブを描く道が延びています。
さて、この泡瀬のバス停ですが、漠然と沖縄市の東海岸に位置すると捉えると、一見何の変哲もありません。日ごろ、泡瀬として示す位置からすればやや北寄りの場所で、埋め立てや区画整理が行われ、地域が変わる中で、示す場所が変わったのだろうと考えていました。新しい道が通り新たな商業施設ができる一方、バスが走る道は昔ながらの道であるのも、そのように思える要因でした。古い集落と新しい街、よくある地域が変化した構図であろうと考えていたのです。
泡瀬バス停の周辺をよく見ると、この場所が桃原3丁目であるとの表示がありました。これもよくある話ですが、既存の字名を住居表示を実施した時に、この場所が桃原に組み入れられたのかとも思えました。しかし、この泡瀬バス停の前後のバス停名をよく見ると、少し不思議な事実に気づきました。
泡瀬バス停から北へ3つ先に、「泡瀬二区」というバス停が置かれています。こちらは、泡瀬バス停がある桃原の北隣、古謝に位置しています。一方、南に転じると5つ先のバス停が「泡瀬三区入口」を名乗っており、こちらは住所も泡瀬です。つまり、北から順に、泡瀬二区、泡瀬、泡瀬三区入口というバス停が、それぞれ古謝、桃原、泡瀬に分かれて置かれており、しかも区の順番も入れ替わっています(地図参照)。
どうして泡瀬という地名を名乗るバス停の位置が分散し、区の順番も入れ替わったのでしょうか。そのヒントは、戦前から泡瀬の中心に位置していた美津呂の前にある記念碑にありました。碑文には、戦後米軍に接収された泡瀬地区は、1967(昭和42)年から徐々に返還され、戦前の住宅地や塩田、埋め立て地を合わせて区画整理された経緯が記されていました。
戦争が終わり、生き残った人々は各地域から収容所に集められました。社会が少しずつ落ち着くと、人々は元の集落へ戻りましたが、元々の住まいを米軍に接収された泡瀬の人々は、戻る場所がありませんでした。紆余曲折を経て、桃原、古謝の両集落に分かれて暮らしたのです。
3つの「泡瀬」を名乗るバス停。その位置をよく見ると、戦後の混乱を生き抜いた人々の姿が浮かび上がってくるのです。






<まちあるきライター>
一柳亮太(ひとつやなぎ・りょうた)
1978年、神奈川県出身。大学で地理学を専攻し、離島に暮らす人々の生活行動を研究。まちや地域をテーマにしたワークショップやプロジェクトを運営する傍ら、まちあるきライターとしても活動。
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