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夫婦橋バス停が語る まちの記憶(那覇市若狭)

「夫婦橋バス停が語る」 まちの記憶 Vo.21

那覇の復興期と現在を結ぶ橋

今回は、那覇から周辺の離島に向かう船が発着する泊ふ頭にほど近い、「夫婦(めおと)橋」のバス停を取り上げます。住宅や商店、会社が建ち並ぶ「若狭大通り」と呼ばれる通り沿いにバス停が置かれています。

 バス停名称の由来となった夫婦橋は、若狭大通りが潮渡川を越える位置に架かる橋です。川に係留されているボートが、海が近い街であることを感じさせます。若狭大通りを挟んで海側が若狭3丁目、反対側は潮渡川の南が松山2丁目、北が前島3丁目と、夫婦橋は3つの町の接点ともなっています。
 夫婦橋が架けられたのは、1955(昭和30)年11月。夫婦橋の上流側に架かる橋は、以前本紙(2011年12月16日付)で取り上げた若松卸問屋街通りが潮渡川を越える若松橋なのですが、若松卸問屋街通りと若松橋ができたのが、翌年の56(昭和31)年。ちょうどそのころに夫婦橋の付近が造成され、街が開かれ始めたと分かります。では、夫婦橋が架けられる以前、どのような橋が架かっていて、付近はどんな場所だったのでしょうか。
 実は1955年以前、この場所に橋は架かっていませんでした。夫婦橋を境に、おおむね南側は戦前から町が広がっていました。しかし北側に当たる部分は、戦後の復興で埋立地となるまでは海だったのです。
 かつてこの付近が海であった過去は、夫婦橋という名にも残されています。夫婦橋の近くには夫婦瀬公園という公園があり、公園には現在でも大きな岩が残っています。この付近が、かつて「夫婦瀬」と呼ばれていました。岩に近づいてみると、下の部分が波で削られた痕跡があり、海中にあったことが伺えます。
 戦後、埋め立てられた場所には、各地から人々が移り住んできました。若狭3丁目の埋立地には、米軍に那覇軍港として土地を接収された垣花・住吉の人々が、前島3丁目には、牧志街道(現在の国際通り)の拡張など戦後の復興事業で立ち退きを余儀なくされた人々が、土地を割り当てられています。
 夫婦橋は、ことし10月から架け替え工事が行われる予定です。橋という存在は、バス停の名称にもなるように、地域にとってシンボルとなる場所です。橋が架け変わるのは、地域にとって一つの区切りとなる出来事かもしれません。こうしてみると、夫婦橋は川の両岸だけでなく、戦後復興を遂げるころの那覇と現在をも結ぶ橋であるようにも思えてくるのです。

<1>夫婦橋バス停。隣の停留所名を見ると、夫婦橋が若狭と泊ふ頭のある前島の間に架かっているのが分かる/写真左 <2>前島3丁目の側から眺める夫婦橋。若狭大通りを行き交う車も多い。橋を渡った対岸左側は松山2丁目となる。若狭大通りの右側は、手前も対岸も若狭3丁目。ただし川の手前側は埋立地で、かつては重民町と呼ばれていた/写真右
<1>夫婦橋バス停。隣の停留所名を見ると、夫婦橋が若狭と泊ふ頭のある前島の間に架かっているのが分かる/写真左
<2>前島3丁目の側から眺める夫婦橋。若狭大通りを行き交う車も多い。橋を渡った対岸左側は松山2丁目となる。若狭大通りの右側は、手前も対岸も若狭3丁目。ただし川の手前側は埋立地で、かつては重民町と呼ばれていた/写真右
<3>「めおとばし」と刻まれた橋の親柱。欄干に開けられたスリットがアーチ状となっているのが美しい。奥には橋の架け替えを告知する看板が置かれている/写真左 <4>もう一方の親柱。若干薄れてきているが「一九五五年十一月十四日竣工」と刻まれている。この頃、付近が整備され街が開かれていった/写真右
<3>「めおとばし」と刻まれた橋の親柱。欄干に開けられたスリットがアーチ状となっているのが美しい。奥には橋の架け替えを告知する看板が置かれている/写真左
<4>もう一方の親柱。若干薄れてきているが「一九五五年十一月十四日竣工」と刻まれている。この頃、付近が整備され街が開かれていった/写真右
<5>夫婦瀬公園。かつては芝生が広がる部分も、後ろの団地も、すべて海だった。今でも残る岩は夫婦岩のはずだが4つ。「かつて陸からは2つに見えた」「船を通すよう切り開かれた」などの理由が聞かれたが、果たして真相はいかに/写真左 <6>埋め立てられた土地はさまざまな理由で移転を余儀なくされた人々が移り住んできた。若狭3丁目にある自治会の集会所には「垣花」の文字が見える。現在、那覇軍港となっている垣花町を示している/写真右
<5>夫婦瀬公園。かつては芝生が広がる部分も、後ろの団地も、すべて海だった。今でも残る岩は夫婦岩のはずだが4つ。「かつて陸からは2つに見えた」「船を通すよう切り開かれた」などの理由が聞かれたが、果たして真相はいかに/写真左
<6>埋め立てられた土地はさまざまな理由で移転を余儀なくされた人々が移り住んできた。若狭3丁目にある自治会の集会所には「垣花」の文字が見える。現在、那覇軍港となっている垣花町を示している/写真右

<まちあるきライター>
一柳亮太(ひとつやなぎ・りょうた)

 1978年、神奈川県出身。大学で地理学を専攻し、離島に暮らす人々の生活行動を研究。まちや地域をテーマにしたワークショップやプロジェクトを運営する傍ら、まちあるきライターとしても活動。

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毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞「第1392号2012年8月17日紙面から再掲載」

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