「三土堤バス停が語る」 まちの記憶 Vo.23
山原3地域の分岐点に由来
今回は、名護市中山にある「三土堤(みつどて)」バス停を取り上げます。名護の市街地を抜けて、本部や今帰仁へ続く山道の峠となり、少し平たんで開けた雰囲気の場所にあります。

名護市から本部町方面に見た「三土堤」バス停付近。現在も名護市、本部町、今帰仁村の境界であり、またそれぞれの市町村を結ぶ道の分岐点となっている。行き交う車も多い
三土堤というバス停名は、地名や施設名から採られた名称とは違い、何かいわれがありそうな名前です。しかし、地図に三土堤という地名は見つかりません。またそれを名乗る場所も見当たりません。
名護市史(本編9)を紐解くと、「ミチドゥティ」に関する記述を見つけました。そこで1923(大正12)年に発行された地形図を読むと「三ッ堤」という地名が記されていました。
昔から、この付近は名護、本部、今帰仁の境界でした。現在もそのまま市町村の境となっています。この3者の接点には境を示す土手が築かれ、「ミチドゥティ(三つ土手)」と呼んでいました。表記は異なりますが、バス停名となっている三土堤は、このミチドゥティに由来すると思われます。
●三土堤バス停周辺の地図

先に挙げた1923年の地図を見ると、今と同じように、名護から伊豆味、本部を結ぶ道から、今帰仁への道が分岐していたことが読み取れます。この頃、北部では名護を中心に、これまでの荷車がやっと通る狭い道を、馬車や自動車が通行可能とする新しい規格の道を整備する事業が行われていました。新たな道ができると、分岐点である場所がミチドゥティと呼ばれるようになりました。
新たな道ができて人々の往来が増えると、分岐点の周辺に、何軒かの商店が並びました。送られて来た郵便を、本部と今帰仁向けに分配する地点でもありました。山道を歩いてきた人にとっては、山の中にあって少し開けたにぎわいを感じる場所であったことでしょう。
今となっては、旧ミチドゥティと呼ばれた境界を訪ねても、築かれた土手の痕跡はまったく分かりません。分岐点であった新ミチドゥティも、大正期に整備された道の面影は、その後の道路拡張や付け替えによって失われてしまいました。交差点名も現在では「中山」と変わっています。
それでも、現在もこの場所は3市町村の境であり、多くの車が行き交い、沿道には商店や食堂、観光施設が並んでいます。道や建物は変わりましたが、道が分かれ、人々が店に立ち寄るこの場所の役割は、なんら変わっていないように思えます。そしてその傍らに、かつての地名を伝えるバス停がたたずんでいるのです。

三土堤バス停三土堤のバス停。名護から伊豆味を経由し、本部方面を結ぶ路線が通過する。1日7往復のバスは決して多くはないが、学生、高齢者の生活の足となっている

新ミチドゥティと称された、かつて道の分岐点があった付近。現在は道路が拡幅され、かつ付け替えられて面影は無い。交差点の名称も「中山」となったが、現在も「ようこそ今帰仁村へ」と記された看板が立ち、村の入り口にある分岐点となっている

旧ミチドゥティ付近。現在でもこの位置が名護市と本部町の境界となっている。よく見ると、この場所を境に道も下り坂となり、峠となっているのが分かる

旧ミチドゥティがあったとされる付近。現在では原野となっている。県道からこの場所へ続く細い道が、もしかすると大正期に整備される以前の道なのかもしれない
<まちあるきライター>
一柳亮太(ひとつやなぎ・りょうた)
1978年、神奈川県出身。大学で地理学を専攻し、離島に暮らす人々の生活行動を研究。まちや地域をテーマにしたワークショップやプロジェクトを運営する傍ら、まちあるきライターとしても活動。
▼関連する記事<一柳亮太さんがまちあるき>
・三土堤バス停が語る「まちの記憶」
・山川二丁目バス停が語る「まちの記憶」
・夫婦橋バス停が語る「まちの記憶」
・泡瀬バス停が語る「まちの記憶」
・五月橋バス停が語る「まちの記憶」
・開南バス停が語る「まちの記憶」
・国際通りが語る「まちの記憶」
・緑地が語る「まちの記憶」
・区画が語る「まちの記憶」
・通りが語る「まちの記憶」
・道路が語る「まちの記憶」
・電話番号が語る「まちの記憶」
・郵便局が語る「まちの記憶」
・橋が語る「まちの記憶」
・マンホールの蓋が語る「まちの記憶」
・道が語る「まちの記憶」
・見えない川が語る「まちの記憶」
・久茂地公民館が語る「まちの記憶」
・道・すーじーが語る「まちの記憶」
・建物が語る「まちの記憶」
・灯籠が語る「まちの記憶」
・バス停が語る「まちの記憶」
・電柱が語る「まちの記憶」
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞「第1405号2012年11月16日紙面から掲載」