沖縄の不動産・賃貸・売買ならコノイエ+プラス

お役立ちコラム

石垣島・開南バス停が語る まちの記憶【沖縄・石垣島】

「石垣島・開南バス停が語る」まちの記憶 Vol.27

開拓の歴史を現在に伝える

今回は石垣島にある、もう一つの開南バス停を取り上げます。那覇にある開南バス停が、かつて存在した学校の名称を残しているのに対して、石垣島の開南バス停はどのような「記憶」を語ってくれるのでしょうか。

開南の集落とバス停。南の市街地から北部へ抜ける道沿いに、何軒かの家が並んでいる。雲が掛かっていて見えにくいが、正面奥の電波塔がある山が、沖縄県の最高峰である標高525.5メートルの於茂登岳
<1>
開南の集落とバス停。南の市街地から北部へ抜ける道沿いに、何軒かの家が並んでいる。雲が掛かっていて見えにくいが、正面奥の電波塔がある山が、沖縄県の最高峰である標高525.5メートルの於茂登岳

石垣島を巡ると、密集した市街地を一歩抜けて周辺に進むと、広大な農地が広がっている光景を目にします。石垣島は昔から、南部の海岸沿いに人口が集中する一方、中部や北部にはほとんど人が暮らしていませんでした。琉球王府時代から何度も開拓が行われましたが、石垣島の中北部はマラリアの有病地であり、定着できなかったのです。

昭和に入ると、沖縄は経済的に疲弊し「ソテツ地獄」と呼ばれる時期を迎えます。1931(昭和6)年、沖縄県は国とともに初めての振興計画である「沖縄県振興15年計画」を取りまとめます。それを受けて石垣島においても開拓事業が開始されました。

1938(昭和13)年、県の振興計画によって於茂登岳のふもとに初めての開拓集落が置かれ、入植者による開墾が始められました。島内の別の集落出身者や、真珠養殖のために来ていた本土出身者からなる17世帯が入植しましたが、マラリアの影から逃れられず、すぐに多くの人が引き揚げてしまいました。その後、沖縄本島からの新たな入植者など幾多の変遷を経ていきますが、この集落こそが、今回取り上げたバス停のある開南の集落なのです。

那覇の開南中学校の開校が1936(昭和11)年、この開南の開拓が進められたのもほぼ同時期です。両者の間には直接的な関係はありませんが、この頃はサイパン、パラオなどの南洋群島の統治が最盛期を迎えていた時代です。「南に開く」という言葉が一種はやる世相であったのかもしれません。

さて、開拓を妨げていたマラリアは戦後急速に対策が進み、ついに1962(昭和37)年、八重山諸島では根絶が確認されました。石垣島の開拓もマラリアの根絶と並行して進み、中北部の各地に開拓集落が置かれました。バス停を見ても、入植者の出身地を示す「多良間」「下地」という名称や、「栄」という開拓の希望を示す集落名、そして戦前からの台湾人入植者が興した会社名を残す「大同」というバス停が、開拓の歴史を残しています。

石垣島の歴史を語る上で欠かせない開拓。人々の暮らしと共にあったバス停もまた、開拓地の存在を伝えているのです。

開南集落の中心にある「開南」バス停。通過するバスは1日4往復、乗降も多くはないが、バス停の周辺はきれいに清掃されている。隣接する「おもと」バス停のある於茂登集落も、1957(昭和32)年に最後の琉球政府計画移民として入植した集落
<2>
開南集落の中心にある「開南」バス停。通過するバスは1日4往復、乗降も多くはないが、バス停の周辺はきれいに清掃されている。隣接する「おもと」バス停のある於茂登集落も、1957(昭和32)年に最後の琉球政府計画移民として入植した集落

1421js_matikioku03

「開南農道」の看板と、サトウキビ畑の中を一直線に延びる道。周辺はこの道以外にも直線に延びる道路が存在し、広い農地と相まって、島の中とは思えない大陸的な景色が広がる
<3>
「開南農道」の看板と、サトウキビ畑の中を一直線に延びる道。周辺はこの道以外にも直線に延びる道路が存在し、広い農地と相まって、島の中とは思えない大陸的な景色が広がる
バスの走る道から一歩へ入ると、こちらも直線的な道が延びている。開南集落内も直線の道が交わり、四角形に区画されたいかにも開拓地という景観が見られる
<4>
バスの走る道から一歩へ入ると、こちらも直線的な道が延びている。開南集落内も直線の道が交わり、四角形に区画されたいかにも開拓地という景観が見られる
開南集落の南側から農地を見渡す。右手の建物はライスセンター。写真では畑が続くが、米づくりも盛んに行われている。左側は川原の集落で、こちらも開南の3年後に入植が始まった開拓集落
<5>
開南集落の南側から農地を見渡す。右手の建物はライスセンター。写真では畑が続くが、米づくりも盛んに行われている。左側は川原の集落で、こちらも開南の3年後に入植が始まった開拓集落
開南は、石垣島の中心市街地である石垣港から直線距離で8キロほど。開拓地としては最も市街地に近い集落のひとつ
開南は、石垣島の中心市街地である石垣港から直線距離で8キロほど。開拓地としては最も市街地に近い集落のひとつ

<まちあるきライター>
一柳亮太(ひとつやなぎ・りょうた)

 1978年、神奈川県出身。大学で地理学を専攻し、離島に暮らす人々の生活行動を研究。まちや地域をテーマにしたワークショップやプロジェクトを運営する傍ら、まちあるきライターとしても活動。

▼関連する記事<まちの記憶
石垣島・開南バス停が語る「まちの記憶」
北谷運動公園前バス停が語る「まちの記憶」
新城売店前バス停が語る「まちの記憶」
住宅前バス停が語る「まちの記憶」
三土堤バス停が語る「まちの記憶」
山川二丁目バス停が語る「まちの記憶」
夫婦橋バス停が語る「まちの記憶」
泡瀬バス停が語る「まちの記憶」
五月橋バス停が語る「まちの記憶」
開南バス停が語る「まちの記憶」
国際通りが語る「まちの記憶」
緑地が語る「まちの記憶」
区画が語る「まちの記憶」
通りが語る「まちの記憶」
道路が語る「まちの記憶」
電話番号が語る「まちの記憶」
郵便局が語る「まちの記憶」
橋が語る「まちの記憶」
マンホールの蓋が語る「まちの記憶」
道が語る「まちの記憶」
見えない川が語る「まちの記憶」
久茂地公民館が語る「まちの記憶」
道・すーじーが語る「まちの記憶」
建物が語る「まちの記憶」
灯籠が語る「まちの記憶」
バス停が語る「まちの記憶」
電柱が語る「まちの記憶」


毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞「第1421号2013年3月15日紙面から掲載」

月別アーカイブ

ライター