「三原川が語る」まちの記憶 Vol.29
住宅街の川と橋 姿変えつつ存在
住宅街を流れる川には、直接姿が見えるものだけでなく実は歩道や住宅地に挟まれた路地に姿を変えて、その下を流れているものも存在します。那覇市内を流れる安里川に架かる橋の一つ、大道練兵橋で安里川に合流する三原川も、そのような川です。
那覇市内を流れる安里川に架かる橋の一つに、大道練兵橋があります。かつてこの地に存在した陸軍練兵場の名を残す橋名ですが、この橋から川を見下ろすと、ちょうど橋のたもとでもう一つの川が合流しているのが見て取れます。川の上流に目を転じても、川はすぐに蓋をされて、姿を見失います。周囲を見渡すと、松川公園という細長い公園が見えました。幅は3メートル、しかし長さは150メートルほどある不思議な形。そう、この公園も前回取り上げたガーブ川と同じく、蓋をされた川にできたものです。
公園を過ぎると、一見何もない道に見えますが、歩道や住宅地に挟まれた路地に姿を変えて、曲がりくねりながら続きます。川をさかのぼる途中で明らかに橋が残っている場所もありました。
住宅地の間を進むと、勢いよく流れる水音が聞こえてきました。なんと道の片隅から水があふれているのです。さらに進むと、川が姿を見せました。まるで渓谷のように、家が立ち並ぶ間をしぶきを上げながら水が流れています。
驚きを隠せないまま、なお川に沿って繁多川の方へ足を進めます。川は姿を隠したり現れたりしながらも、水量は一向に減る様子をみせません。住宅地を流れるこのような小さい川は、上流へさかのぼるほど水量が減り雨が降る時以外は水が流れていないことがよくありますが、全く対照的な光景です。
川をたどり行き着いた先には、豊かな水が湧き出る「イシジャガー」と呼ばれる井(カー)がありました。この地で湧いた水が、今歩いてきた川を下り安里川に合流しているのでしょう。川は姿を変えながらも、昔と変わらぬ流れを保っているのです。

三原川大道練兵橋で安里川に合流する川。この川の名は、資料によっては「三原川」となっている。三原という地名は戦後の1949(昭和24)年に生まれた地名なので、古くは何と呼ばれていたのか分からない。

川の蓋となっている公園の様子。大道練兵橋で安里川に注ぐ間際まで川の姿は見えないが、橋から道を挟んで、およそ200mほど細長い公園が続き、はっきりと川の存在が分かる。

大道練兵橋以来、姿を現した川。家と家の間を、まるで渓谷のように下る。水も透明で、見た限りではきれいそう。川の流れを見て、繁多川が水の豊かな土地であることを思い出す。

川をさかのぼり行き着いた井(カー)、「イシジャガー(石田川)」。今も水が豊かに湧き出ている。右手には古くからの石積みの井も残されており、地域の人々によって今でも大切に守られている。
三原川周辺の地図
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<まちあるきライター>
一柳亮太(ひとつやなぎ・りょうた)
1978年、神奈川県出身。大学で地理学を専攻し、離島に暮らす人々の生活行動を研究。まちや地域をテーマにしたワークショップやプロジェクトを運営する傍ら、まちあるきライターとしても活動。
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毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞「第1429号2013年5月10日紙面から掲載」